書き散らし

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喫茶店日記その2 喫茶店のコーヒーは眠気を覚ますか?

 某試験まで残り一ヶ月を切った数少ない貴重な休日。図書館で勉強でもするかと自習室に向かったがいざ勉強を始めると眠気に襲われてどうにも集中できない。

 勉強することは苦手ではなかったはずなのにと絶望しながら早めに切り上げ自習室を出る。そのまま家に帰っても眠気を理由にごろごろしてしまうことは自明である。

 そうだ、カフェに行こう。

 良質なカフェイン入りのコーヒーを飲んで集中力も気分も上げて勉強のモチベーションを保とう。

 

 そんなわけで訪れたのは図書館から車で5分ほどのカフェ。住宅街の奥にあるため、気軽に周辺を徒歩で散歩できるご近所さんか何らかの形で前情報を知るかしないと出会えない立地のカフェだ。

 三角屋根の一軒家を2棟くっつけたような外観でこじんまりした入口。建物のカラーは住宅街に馴染むくすみグリーンとアイボリーのツートンカラーだ

 入ると仄かな珈琲の匂いと高い天井。カフェスペースは奥で手前のスペースは珈琲豆やケーキなんかを売っているちょっとしたショップになっている。

 店員さんに「お好きな席へどうぞ」と言われ、カフェスペースへ。間接照明の灯る落ち着いたテーブル席と自然光いっぱいの開放的なカウンター席。その日の気分に合わせて席を選べるようだ。

 カウンター席を選び、窓の外をぼんやりと眺める。見えるのはお隣の公園。今日のお天気は曇りで辺りは薄暗く、少し外に出ただけでも底冷えのする寒さだ。それでも元気に外で遊んでいる親子がおり、子供には寒さなんて関係ないなとしばしその様子を眺める。 

 今回は「苦味」を特徴としたブレンドコーヒーを注文。コーヒーが来るまで少しでも勉強を進められたらと思ったが鉛筆と消しゴムを取り出して書き書きゴシゴシするのはナンセンスな気がしたので参考書を読むくらいに留めておく。

 春を感じさせる淡いピンクのパッケージに包まれたクランベリー風味のビスケットと共にコーヒーが運ばれてきた。薄口で飲み口が広く、底に向かうにつれてスリムになっていく形状のカップ。浅煎りのコーヒーのようだと思ったが深煎りだ。

 まずは一口目。

 苦味はあまり感じない。水のようなクリアな飲み心地にほんのりフルーティーなコーヒーの風味。喉を通っていく時に軽やかな苦味を感じ、後味にもそれが残る。

 二口目。ビスケットと一緒にいただく。

 ほのかにベリーの風味がするだけであまり主張の激しくないビスケットがコーヒーのまろやかさを引き出す。しばらくコーヒーとビスケットと交互に味わうことを楽しむ。

 少しコーヒーの味に慣れてきてしまったかなというところで水を挟んで口の中をリセットさせる。この頃にはコーヒーも冷めてきて、すっきりした酸味が出てきた。

 さて、勉強の方はどうなったかというとちょうどカフェの本棚に日本国憲法小学館アーカイブス)を見つけてしまった。

 何らかの思想を持っているとか専門的な勉強をしていたとかではないのだが、勉強している某試験の内容と絡んで最近日本国憲法に興味を持っていた。せっかくなので手に取ってみる。

 私は学生の時は社会に関心が全くなく、政経より倫理の方を魅力的に感じて倫理ばかり勉強していたので政経はさっぱりだった。その性格が今の冴えない生活にも影響しているのだが、ここ最近はようやく経済や法律に興味を持ち、社会に目を向けられるようになってきたと思う。

 学生時代に政経で習った政治の運用ルールって全部日本国憲法に書いてあることだったんだなとか、仕事でもマニュアルを使うことが多いけど日本国憲法も国を運営していくうえでのマニュアルのようなものなんだななどと知ったようなことを考えながら目を通す。

 大きな字とわかりやすい注釈、様々なジャンルの写真も挟まれていたので1時間弱で飽きることなく読了できた。巻末にはそれぞれの写真がどこで撮られたものかも載せられていて写真の部分だけもう一度じっくり見返した。

 コーヒーは既に飲み終えているがまだこの空間にいたいと思いまたぼんやりする。ふと、何気なく聴き流していたBGMの旋律がショパンの有名なノクターン(Op.9-2)に似ていることに気づく。原曲より音の装飾が多くリズムも変則的だが大元で聴こえてくるのがノクターンのメロディーなので恐らくアレンジなのだろう。

 ノクターンが終わったら次は渚のアデリーヌが流れてきた。ピアノソロではなく裏で軽快なリズムを刻むベースのような音が聴こえるのでこれもアレンジなのだろう。

 私は音楽に特に詳しいわけではないのだが一時期好きでよく聴いていた曲たちなので嬉しい。最後まで聴き終えたところで名残惜しいが席を立つ。

 帰りの車ではSpotifyでクラシックのプレイリストを再生する。まるでまだカフェでのゆったりした時間が続いているようだ。

 リフレッシュできたカフェタイムだった。眠気はほんのり残っているが家に帰ってもモチベーションを保って勉強することができそうだ。

 そんな、何気ない今日の喫茶店日記である。

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喫茶店のコーヒーは1日を豊かにする【日記】

 ここ最近引き篭もりがちな土日。今日はせっかくなので気になっている近所のカフェに行こうと思い立ち、おやつの時間も過ぎた頃にふらっと出かけてみた。

 そこは大通り沿いに位置している、カフェというより喫茶店というべきレトロな外装のお店だった。大通り沿いであるにも関わらずひっそりと建っており、営業しているのか営業していないのか一見するとわからないような隠れ家のような喫茶店だった。

 ドキドキしながらドアを開けると中はこじんまりした外装に反してゆったりとした開放感のある内装だった。

 暖かみのある落ち着いた照明に年季の入ったダークな色合いの木製の家具。壁にはアンティーク調のポスターが貼られ、5席ほどのテーブル席にはぽつぽつと客が座り思い思いに時間を過ごしている。

 案内された席に座り、「本日のコーヒー」を注文。品物が来るまで、読もうと思いつつも家ではどうも気が進まなかった資料に目を通す。

 運ばれてきたコーヒーはどっしりとした深みのある味わいだった。初めて飲むタイプのコーヒーかもしれない。一緒についてきたシナモンの香りがするビスケットと一緒にいただく。

 コーヒーの苦味とビスケットの仄かな甘味とスパイスの香りがたまらなく合う。とろりとした飲み心地とサクサクとした食感のバランスも良い。ゆっくり楽しむつもりがあまりインターバルを挟まずに飲み終えてしまった。

 飲み終えた後にコーヒーが今まで入っていたカップを眺める。柔らかさのある滑らかな白い陶器。飲み口は厚く、ラインは直線的で当然ながら持った感触は重め。このカップの厚さと形状はこの深煎りのコーヒーのために作られているんだなと俄知識で知った振りをしながらそっとカップを撫でる。

 席の利用時間は土日祝は1時間程度と決められていたため、残りの時間を資料の続きを読むことに費やす。成果は問わないにせよ、時間が限られていたことで集中することができ、読もうと思っていた分は読み終えることができた。

 店内は心地の良い上質な珈琲の香りがした。微かに花のような甘い匂いも混ざっており資料を読みながら密かにその匂いを楽しんでいた。

 先客がばらばらと席を立った。どの客も店主と軽い会話を交わしながら会計を済まし、退店していく。私も何回か来店すればそんな常連になれるだろうか。

 来店してから1時間ほど経過し、私も席を立った。改めて店内を見渡し、落ち着きのある空間に名残惜しさを感じながらお会計をする。

 外に出ると日は完全に落ちる一歩手前で、雪がしんしんと降っていた。

 私の住んでいる場所は豪雪地帯だ。建物にも街路樹にも電線にさえ余すところなく雪が積もり、道路は歩道も車道も雪に覆われて真っ白だ。車道の脇は除雪された雪が大人の姿を隠すほどの雪山となり、それがずっと道なりに続いている。

 そんな既に雪に埋もれかけの町にさらに雪が降っている。

 雪はその地域の住人にとっては困り物だ。除雪をしないと車は出せないし道路は狭くなって渋滞するしストーブの排気管を埋めてしまったり、他にも挙げたらきりがないくらい厄介ごとを引き起こす。

 しかしながらこうして雪の降る中を歩いているとやっぱり冬は雪があってこそだと思う。豪雪地帯の雪は美しい。気温が低いから降りたての雪はふわふわだ。それらが積もり、時間が経って固くなる。さらにその上にまたふわふわの雪が積もると家の屋根も、植え込みの木も、道路沿いの雪山もまるでミルクと粉砂糖をかけたような滑らかでふんわりした風合いになる。そしてそれらの表面は夜でもキラキラと光っているのだ。

 そんな雪景色の美しさを改めて実感しながら20分ほどの帰路を辿る。家に着く頃にはすっかり日が落ちて夕方の薄暗さから夜の暗さになっていた。

 私の住んでいるアパートは築20年近くの昔ながらの雰囲気を醸し出しているアパートなのだが、レトロな喫茶店に行った後だといつもの我が家もあの昔ながらの世界観がまだ続いているように思わせてくれる。

 2時間にも満たない外出であったが、「今日は良い1日だったな」という充実感を得ることができた。またあの喫茶店を訪れたいと思う。

 

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すみっコぐらし「ねこ」における所感〜アニメ『すみっコぐらし そらいろのまいにち』を見て〜

 ※この記事はアニメ『すみっコぐらしそらいろのまいにち』のネタバレを含みます。

 

 すみっコぐらし。日本では知らない人はいないと言っても過言ではないだろう。大人にも子供にも大人気の国民的キャラクターである。かくいう私ももちろんすみっコぐらしが好きだ。

 出会いはアプリゲーム「すみっコぐらし〜パズルをするんです〜」、深みにはまっていったのは「映画すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」。今年公開の映画「ツギハギ工場のふしぎなコ」ももちろん観に行き、冒頭の方からほろほろと涙が溢れ、終盤ではぼろぼろに泣いた。

 そんな映画の余韻がいつまでも消えず、またすみっコたちの世界に行きたいと思っていたところ、映画公開記念のアニメが配信されているではないか。アンコール代わりにと、このYouTubeで公開されている『アニメすみっコぐらし そらいろのまいにち』を見たのだが、図らずも『第1話 ねこのおはなし』で「ねこ」にすっかり心を奪われてしまった。それからずっと「ねこ」のことを考えずにはいられない身体になってしまったのでこの「ねこ」への想いを書き留めておきたいと思い、今回筆を執った。

 

 まず、それまでの「ねこ」の印象についてだが、「ねこ」推しの人には申し訳ないが自分は正直そこまで「ねこ」に大して強く魅力を感じてはいなかった。

 公式サイトにおけるねこのキャラクター紹介は「はずかしがりやで体型を気にしていること」と「気が弱く、よくすみっこをゆずってしまう」ということ。良心の呵責を覚えながらも正体を隠し、母親とも離れ離れにならざるを得ない状況の「とかげ」や生まれ持った体質が故郷の気候に適さなかったために家族と暮らすことを許されなかった「しろくま」のように悲劇的な運命を背負っているわけではない。また昔は頭にお皿があったような気がする自分が何者かわからない「ぺんぎん?」や脂っぽいがために残されてしまいそのことをコンプレックスに思っている「とんかつ」のようにモチーフ自体が強烈な個性を持つファンタジーベースの存在でもない。

 ただふくよかで恥ずかしがり屋なだけの「ねこ」は素朴で、他のすみっコたちの中では個性が弱いようにさえ感じていた。

 しかし、そんな「ねこ」の印象は今回のアニメ『そらいろのまいにち』の『第1話 ねこのおはなし』で180°変わった。

 ここで、言い訳なのだがすみっコぐらしが好きだとはいいつつも私のそれまでに触れたことのあるすみっコぐらしのストーリーは映画くらいである。なので、今回のアニメで初めてすみっコたち、特に「ねこ」の過去を知ることになった。

 アニメによると、「ねこ」は他の兄弟2匹と共に元々捨てられていた猫であり、子猫の頃は兄弟たちを差し置いてもらったご飯を独り占めするほどのわがままっぷりだった。その結果「ねこ」は「ふっくらねこ」となり、兄弟たちはもらわれていったが「ねこ」だけは貰い手がおらず、そのまま野良猫になってしまった。恥ずかしがり屋になったのもこのタイミングだ。

 「ねこ」はそれからずっとそんな自分を変えたいと思っており、「『ほっそりねこ』になったら何かが変わるかもしれない」と筋トレをしているが、なかなか思うように自分を変えることができず変わらない毎日に落ち込むこともしばしばである。

 ここからが今回の本題である。このアニメを見た時、「ねこ」というキャラクターが私にめちゃくちゃ刺さったのである。 

 「ねこ」の考え方、そしてそのルーツとなる過去を知った時私は「『ねこ』と自分は似ている」と感じた。

 「ねこ」が設定として持っているのは周りが見えておらずわがまま放題だった過去、その結果自分だけ思うような人生を歩めなかった現状。それによる慢性的な羞恥心。

 「ねこ」は最初から太っていたわけでも恥ずかしがり屋だったわけでもない。幼少期はむしろ兄弟たちのことを考えない自己中心的な側面があったのだ。そしてそんな振る舞いを続けた結果、兄弟たちは貰われていったのに対して自分1人が子供の頃のままの環境に取り残されてしまったのだ。変わったのは体型がふっくらとしたことだけ。そしてそれは自分が周りのことを考えずに自分勝手に振る舞った証である。

 「ねこ」が体型を気にしているのはそんなわがまま放題の過去でできた自分を恥じているからなのだろう。「ほっそりねこ」になれれば自分の過去の過ちの目に見える部分から解放される。だから「ねこ」は痩せることに希望を持つのだ。

 私はこの「ねこ」の過去を知って他人事とは思えなかった。「ねこ」の過去と現在、どちらも身に覚えがある。

 大学卒業後、周りは立派な大人になっており、自分だけいつまでも周りが見えない幼稚さを持ったままで、気づけば1人学生の土俵に取り残されていた。劣等感から自分に自信がなくなり、昔は社交的だったはずなのにいつまでも子供の感覚のままでいる自分が恥ずかしくて人とうまく話せず、気づけば人見知りになっていた。今の自分の状況は過去の自分が愚かだった証だと自身を責め、そんな自分を変えたいと思いつつも変わらない毎日。

 こんなにキャラクターと自分がシンクロすることがあるだろうか。「ねこ」の過去も恥ずかしがり屋になった経緯も私はまるで自分のことのように感情移入した。

 さて、アニメではそんな「ねこ」が自分を変えるために腕立てや腹筋など努力をする様子も描かれる。

 解釈違いを覚悟で私の感じた印象を書こう。それらは「ほっそりねこになったら何か変わるかな」「明日は何か変わるかな」という希望的観測による「ゆるふわ努力」である。本当に自分を変えるつもりがあるからもっと「お金持ちの家猫になる!」といった目標を掲げ「どんな猫がお金持ちに飼われているのか」と目指す姿を分析し、「理想の自分になるためにはいつまでに何をすれば良いのか」など細かく計画を練って努力する方が確実である。それを「ほっそりねこ」になりたいとはいうものの「何かが変わるかもしれない」というふわっとした動機でやっているのでは甘えが生じ、変わるものも変わらないだろう。現に「ねこ」も自分は何も変わっていないということを自覚し、落ち込んでいる。

 私は最初「ねこ、それでいいのか?」と思った。「ねこ」は「とかげ」や「しろくま」といった他の仲間たちと違って自分ではどうしようもできない体質や社会的事情による悲劇的な運命を背負っているわけではない。ねこはすみっコたちの中で唯一、変わることができれば「すみっコぐらし」を離脱できる可能性を持っているすみっコなのだ。

 私には「ねこ」を糾弾する気持ちすらあった。「ねこ」の救いは正しく努力をすることによる現状からの脱却なのに、「ねこ」だけが唯一「すみっコぐらし」ではなくなる可能性を秘めているのに、「ねこ」自身が変わりたいと望んでいるのにそれでいいのか、と。

 しかし、「ねこ」が努力次第で「すみっコぐらし」を脱却できる状況でありながらも隅にい続けていることにこそ「ねこ」が「すみっコぐらし」の一員である意味があるのだ。

 これまでの映画と『そらいろのまいにち』を見たところによる私見だが、すみっコぐらしで描かれる救いとは「現状抱えている問題を何とかしよう」というものではなく、「現状のどうしようもない問題はもうどうしようもないのでそれはそのままで他の形で問題を解決できる方法はないか」というものである。

 例えば、同じすみっコの仲間である「とんかつ」にとっての救いは外野目線で考えれば「食べられること」なのだが『そらいろのまいにち』の『第2話 とんかつとえびふらいのしっぽのおはなし』ではすみっコの仲間たちに美味しそうに盛り付けてもらうことが「とんかつ」の救いになっている。これは、「とんかつ」が残り物で誰にも食べてもらえないという問題はもうどうしようもできないのでせめて美味しく見えるようにアレンジしてあげようというすみっコたち流の課題解決方法なのだ。

 「ねこ」についても同じように考えると「ねこ」の過去も、恥ずかしがり屋の性格も、変わりたいと思いつつ変わらないことも、全て現状どうしようもないことであり、それが「ねこ」の個性なのである。だから、ねこは落ち込み、悩みつつも希望的観測でゆるふわ努力をして変わらないままでいいのである。それ故に「ねこ」も「ここが落ち着くんです」とすみっコにいるのだ。

 そしてそんな「ねこ」に救われるのは他でもない、私のような「ねこ」に強く共感する外野なのである。

 もちろん現実はすみっコぐらしの世界のような優しい世界ではない。変わりたいと思うならガチガチに努力するに越したことはないし、私自身も変わりたいと思って今まさに行動しているところである。

 日々過去を悔やみ、自分を責め、焦りが募るばかりで落ち込むことも多いが「ねこ」の過去を知ってからは「ねこ」に救われるようになった。

 自分と似た境遇で同じような悩みを持つ「ねこ」。そんな「ねこ」はすみっコの世界ではあるがままを認められていると思うと自分の抱えている劣等感や焦りによる辛い気持ちがふっと和らぐのだ。

 後悔を抱えて悩み、落ち込みながらもそれが個性であり、魅力である「ねこ」の存在は過去の愚かな振る舞いによって周囲から取り残されてしまっても、日の当たる場所に居場所がなくても、それが自分の持ち味なのだと。フラットな視点で自分の過去も性格も認めてあげていいのだと。そんな気持ちにさせられる。

 「ねこ」が他のすみっコたちに比べて個性が弱いだなんてとんでもない。実は「ねこ」は最も身近な個性を持ち、最も親近感を覚えるすみっコだったのだ。

 後悔だらけの人生を歩んでしまった自分を認めてくれるような、劣等感に押し潰されそうになった時のお守りになってくれるような、そんな心強さを「ねこ」は持っている。

 『ねこのおはなし』の最後は回想を終えた「ねこ」が「自分はあの頃と何も変わっていない」と落ち込み、「優しいみんなのためにいつか変わりたい」と願って終わる。

 しかし、冒頭で「やさしい」と紹介されている通り「ねこ」もちゃんと優しさを持っている。気の弱さ故にすみっこを譲ってしまうとも捉えられるがここは「ねこ」自身が相手を思いやる気持ちをしっかり持っていると捉えたい。そして、その優しさは過去の自己中心的な振る舞いの反省から備わったものではないだろうか。

 つまり、「変わらない」と本人は思いつつも「ねこ」もちゃんと変わっているのだ。「ほっそりねこ」になることのような目に見える変化ではないがちゃんと内面は「わがままこねこ」のままではなく相手のことを考えられる「やさしいねこ」に成長できているのだ。そんな優しさを持つ「ねこ」だからこそすみっこという仲間と居場所に出会えたのだろう。

 自分もそんな「ねこ」のように自分ではわからなくても少しずつでも後悔から成長できていれればいいなと思う。 

『ねこのおはなし』は「ねこ」の持つキャラクター性の深さとその魅力を教えてくれ、見ている人の日々の後ろ向きな気持ちを和らげ、ちょっとだけ前に目を向けさせてくれる、そんな物語だった。

 これから、私の「ねこ」に狂う日々が始まる。  

 

 

一生モノのジーンズ、見つけてもらいました!

 私は接客をされることが元々苦手だった。共感してくれる人は少なくないだろう。

 店員と客という関係はどのような距離感が望ましいのか掴みにくい。買い物に行って店員さんに話しかけられてもオドオド、キョドキョドしてしまい「アッアッ……」しか言えない不審者になってしまうのが私だ。

 

 さて、そんなオドキョド族の私にとって服屋さんで服を買うのはなかなかの鬼門である。気になる服屋さんに入っても店員さんが近づいてくるとさりげなーく距離をとったりお店を出てしまったりする。

 しかし、そんな私にもお洋服屋さんで店員さんとしっかりコミュニケーションを取り、満足な買い物が出来た経験がある。

 それは某アメリカ発の衣料品店、G◯P。

 夏に向けてカジュアルなジーンズが欲しいなと思っていた時の買い物だった。

 私は洋服を買うのにとても時間をかけてしまうタイプである。それというのも、どうも私の体型にぴたりと合う服になかなか出会えないのである。

 ジーンズも例外ではない。太ももやお尻のぴちぴち感が気になってしまったり、逆にお尻部分の布が余ってしまったり、中々満足できるアイテムに出会えない。

 この時も色々な服屋さんを見てどれもしっくりこないなと彷徨った果てのG◯Pだった。

 正直私はG◯Pはそれまで利用したことはなかった。カジュアルすぎて自分にはあまり馴染まないなという印象があったのである。

 しかしながらお店の中には様々な種類のジーンズが並んでいるのが見え、ここなら自分の理想のものがあるかもしれないという予感がし、私は店に足を踏み入れたのである。

 入り口から間もないところに様々な種類のジーンズがレイアウトされている棚があった。

 スキニーやストレートはまだわかるが初めて聞くような様々なデニムの名前が並んでいる。どれを選べばいいのかピンとこず、手当たり次第にサイズを探して試着するしかないのかと考えていたところである。

「こんにちは。何かお探しですか?」

 現れたのが今回の記事の主役の店員さんだ。華やかな雰囲気を持ちながらも親しみのある笑顔の20代後半くらいの女性である。

「アッ、ジーンズを探していて……」

 オドキョド族の私は「アッ」からしか話し始められない。それでも店員さんは愛想良く接客を続けてくれる。

「何かこれがいいなとかありますか?」

「アッ、ソノ、どれがいいのかよくわからなくて悩んでいるんです」

 会話はなんとなくこんな会話をしたかなというふんわりした記憶で再現している。

 いつも店員さんに話しかけられると逃げたくなる私だが、この時はジーンズ探しの旅に疲れ果てており、これだけジーンズがあるんだし店員さんに聞けばいいものが見つかるかも!と思い、素直に悩んでいることを相談した。

「なるほど、こだわりなどはありますか?」

「アッ、ぴったりしたジーンズを穿くと太ももやお尻周りの太さが露骨に出るのが気になってしまうんです。でもゆったりしたものを穿くと野暮ったく見えてしまうんです。私、足がすごく太くて」

「ええ!?そんなことないですよ!お客様スタイルいいじゃないですか!」

 つい自虐的な悩み相談をしてしまったが店員さんは明るくフォローを入れてくれた。私は単純なので褒められると素直に喜ぶ。

「でもそうですね、太ももとお尻周りが気になってゆったりしたものはお好みではないならこのタイプかこのタイプがいいんじゃないですか?」

 店員さんは私には全く見分けのつかないジーンズの海の中からひょいひょいと2本のジーンズを取り出した。

「これはどちらもお尻と太もも周りが広めに作られているんですけど、足首にかけて細くなっているのでお客様のご希望に合うと思います」

 なんと店員さんは私のわがままな希望を叶えるジーンズをぱぱっと選定してしまったのである。

 店員さんにお礼を良い、試着してみる。

 私の理想とするシルエットがそこにはあった。

 自分1人だったらどれがいいかわからず、何度も試着し、これじゃない感に絶望し、泥沼化して最終的には疲れ果てて「今日も収穫がなかった……」と肩を落として帰るところだっただろう。そんな服を買う時のストレスをあの店員さんは簡単に解決してくれたのである。

 試着した時の感動は今でも覚えている。私の理想のジーンズが見つけられたという喜びも。

 本当にあの店員さんには感謝しかない。会計時に接客アンケートの紙をもらったのだが、普段は捨てるところをこの時はいかに店員さんの接客に満足したかを「その他」欄に書き綴った。

 ただ、その店員さんの名前をよく見ていなかったため、ちゃんと感謝の気持ちが伝わっているかだけが心残りだ。

 何はともあれ、そのジーンズは一軍の服となり毎年ワンシーズン穿き倒している。まだまだこれから何年も穿くつもりだ。

 こんな何年も穿きたいと思える服に出会えたのもあの店員さんのおかげである。今まで接客されるのが苦手だった私だったが、これからは接客も積極的に受けていこうと思った。

 接客とは、商品の知識に乏しいが自分の満足のいくものを選びたいという私のようなこだわりの強い客こそ買い物のストレスを減らすために受けるべきなのである。

 というわけで、一生もののジーンズを選定してくれ、接客を受けることへの苦手感も解消してくれたあの時の店員さんが私の中でずっと心に残っており、「すごい!」と思った店員さんなのである。

 

 ちなみに後から知ったのだがG◯Pには「誰もが自分に合うジーンズを簡単に見つけられるようにしたい」という信念があるとのことだった。あの店員さんはその企業の信念を見事に体現してくれたのだ。改めてあの店員さんはプロフェッショナルだったのだと実感した。