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すみっコぐらし「ねこ」における所感〜アニメ『すみっコぐらし そらいろのまいにち』を見て〜

 ※この記事はアニメ『すみっコぐらしそらいろのまいにち』のネタバレを含みます。

 

 すみっコぐらし。日本では知らない人はいないと言っても過言ではないだろう。大人にも子供にも大人気の国民的キャラクターである。かくいう私ももちろんすみっコぐらしが好きだ。

 出会いはアプリゲーム「すみっコぐらし〜パズルをするんです〜」、深みにはまっていったのは「映画すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」。今年公開の映画「ツギハギ工場のふしぎなコ」ももちろん観に行き、冒頭の方からほろほろと涙が溢れ、終盤ではぼろぼろに泣いた。

 そんな映画の余韻がいつまでも消えず、またすみっコたちの世界に行きたいと思っていたところ、映画公開記念のアニメが配信されているではないか。アンコール代わりにと、このYouTubeで公開されている『アニメすみっコぐらし そらいろのまいにち』を見たのだが、図らずも『第1話 ねこのおはなし』で「ねこ」にすっかり心を奪われてしまった。それからずっと「ねこ」のことを考えずにはいられない身体になってしまったのでこの「ねこ」への想いを書き留めておきたいと思い、今回筆を執った。

 

 まず、それまでの「ねこ」の印象についてだが、「ねこ」推しの人には申し訳ないが自分は正直そこまで「ねこ」に大して強く魅力を感じてはいなかった。

 公式サイトにおけるねこのキャラクター紹介は「はずかしがりやで体型を気にしていること」と「気が弱く、よくすみっこをゆずってしまう」ということ。良心の呵責を覚えながらも正体を隠し、母親とも離れ離れにならざるを得ない状況の「とかげ」や生まれ持った体質が故郷の気候に適さなかったために家族と暮らすことを許されなかった「しろくま」のように悲劇的な運命を背負っているわけではない。また昔は頭にお皿があったような気がする自分が何者かわからない「ぺんぎん?」や脂っぽいがために残されてしまいそのことをコンプレックスに思っている「とんかつ」のようにモチーフ自体が強烈な個性を持つファンタジーベースの存在でもない。

 ただふくよかで恥ずかしがり屋なだけの「ねこ」は素朴で、他のすみっコたちの中では個性が弱いようにさえ感じていた。

 しかし、そんな「ねこ」の印象は今回のアニメ『そらいろのまいにち』の『第1話 ねこのおはなし』で180°変わった。

 ここで、言い訳なのだがすみっコぐらしが好きだとはいいつつも私のそれまでに触れたことのあるすみっコぐらしのストーリーは映画くらいである。なので、今回のアニメで初めてすみっコたち、特に「ねこ」の過去を知ることになった。

 アニメによると、「ねこ」は他の兄弟2匹と共に元々捨てられていた猫であり、子猫の頃は兄弟たちを差し置いてもらったご飯を独り占めするほどのわがままっぷりだった。その結果「ねこ」は「ふっくらねこ」となり、兄弟たちはもらわれていったが「ねこ」だけは貰い手がおらず、そのまま野良猫になってしまった。恥ずかしがり屋になったのもこのタイミングだ。

 「ねこ」はそれからずっとそんな自分を変えたいと思っており、「『ほっそりねこ』になったら何かが変わるかもしれない」と筋トレをしているが、なかなか思うように自分を変えることができず変わらない毎日に落ち込むこともしばしばである。

 ここからが今回の本題である。このアニメを見た時、「ねこ」というキャラクターが私にめちゃくちゃ刺さったのである。 

 「ねこ」の考え方、そしてそのルーツとなる過去を知った時私は「『ねこ』と自分は似ている」と感じた。

 「ねこ」が設定として持っているのは周りが見えておらずわがまま放題だった過去、その結果自分だけ思うような人生を歩めなかった現状。それによる慢性的な羞恥心。

 「ねこ」は最初から太っていたわけでも恥ずかしがり屋だったわけでもない。幼少期はむしろ兄弟たちのことを考えない自己中心的な側面があったのだ。そしてそんな振る舞いを続けた結果、兄弟たちは貰われていったのに対して自分1人が子供の頃のままの環境に取り残されてしまったのだ。変わったのは体型がふっくらとしたことだけ。そしてそれは自分が周りのことを考えずに自分勝手に振る舞った証である。

 「ねこ」が体型を気にしているのはそんなわがまま放題の過去でできた自分を恥じているからなのだろう。「ほっそりねこ」になれれば自分の過去の過ちの目に見える部分から解放される。だから「ねこ」は痩せることに希望を持つのだ。

 私はこの「ねこ」の過去を知って他人事とは思えなかった。「ねこ」の過去と現在、どちらも身に覚えがある。

 大学卒業後、周りは立派な大人になっており、自分だけいつまでも周りが見えない幼稚さを持ったままで、気づけば1人学生の土俵に取り残されていた。劣等感から自分に自信がなくなり、昔は社交的だったはずなのにいつまでも子供の感覚のままでいる自分が恥ずかしくて人とうまく話せず、気づけば人見知りになっていた。今の自分の状況は過去の自分が愚かだった証だと自身を責め、そんな自分を変えたいと思いつつも変わらない毎日。

 こんなにキャラクターと自分がシンクロすることがあるだろうか。「ねこ」の過去も恥ずかしがり屋になった経緯も私はまるで自分のことのように感情移入した。

 さて、アニメではそんな「ねこ」が自分を変えるために腕立てや腹筋など努力をする様子も描かれる。

 解釈違いを覚悟で私の感じた印象を書こう。それらは「ほっそりねこになったら何か変わるかな」「明日は何か変わるかな」という希望的観測による「ゆるふわ努力」である。本当に自分を変えるつもりがあるからもっと「お金持ちの家猫になる!」といった目標を掲げ「どんな猫がお金持ちに飼われているのか」と目指す姿を分析し、「理想の自分になるためにはいつまでに何をすれば良いのか」など細かく計画を練って努力する方が確実である。それを「ほっそりねこ」になりたいとはいうものの「何かが変わるかもしれない」というふわっとした動機でやっているのでは甘えが生じ、変わるものも変わらないだろう。現に「ねこ」も自分は何も変わっていないということを自覚し、落ち込んでいる。

 私は最初「ねこ、それでいいのか?」と思った。「ねこ」は「とかげ」や「しろくま」といった他の仲間たちと違って自分ではどうしようもできない体質や社会的事情による悲劇的な運命を背負っているわけではない。ねこはすみっコたちの中で唯一、変わることができれば「すみっコぐらし」を離脱できる可能性を持っているすみっコなのだ。

 私には「ねこ」を糾弾する気持ちすらあった。「ねこ」の救いは正しく努力をすることによる現状からの脱却なのに、「ねこ」だけが唯一「すみっコぐらし」ではなくなる可能性を秘めているのに、「ねこ」自身が変わりたいと望んでいるのにそれでいいのか、と。

 しかし、「ねこ」が努力次第で「すみっコぐらし」を脱却できる状況でありながらも隅にい続けていることにこそ「ねこ」が「すみっコぐらし」の一員である意味があるのだ。

 これまでの映画と『そらいろのまいにち』を見たところによる私見だが、すみっコぐらしで描かれる救いとは「現状抱えている問題を何とかしよう」というものではなく、「現状のどうしようもない問題はもうどうしようもないのでそれはそのままで他の形で問題を解決できる方法はないか」というものである。

 例えば、同じすみっコの仲間である「とんかつ」にとっての救いは外野目線で考えれば「食べられること」なのだが『そらいろのまいにち』の『第2話 とんかつとえびふらいのしっぽのおはなし』ではすみっコの仲間たちに美味しそうに盛り付けてもらうことが「とんかつ」の救いになっている。これは、「とんかつ」が残り物で誰にも食べてもらえないという問題はもうどうしようもできないのでせめて美味しく見えるようにアレンジしてあげようというすみっコたち流の課題解決方法なのだ。

 「ねこ」についても同じように考えると「ねこ」の過去も、恥ずかしがり屋の性格も、変わりたいと思いつつ変わらないことも、全て現状どうしようもないことであり、それが「ねこ」の個性なのである。だから、ねこは落ち込み、悩みつつも希望的観測でゆるふわ努力をして変わらないままでいいのである。それ故に「ねこ」も「ここが落ち着くんです」とすみっコにいるのだ。

 そしてそんな「ねこ」に救われるのは他でもない、私のような「ねこ」に強く共感する外野なのである。

 もちろん現実はすみっコぐらしの世界のような優しい世界ではない。変わりたいと思うならガチガチに努力するに越したことはないし、私自身も変わりたいと思って今まさに行動しているところである。

 日々過去を悔やみ、自分を責め、焦りが募るばかりで落ち込むことも多いが「ねこ」の過去を知ってからは「ねこ」に救われるようになった。

 自分と似た境遇で同じような悩みを持つ「ねこ」。そんな「ねこ」はすみっコの世界ではあるがままを認められていると思うと自分の抱えている劣等感や焦りによる辛い気持ちがふっと和らぐのだ。

 後悔を抱えて悩み、落ち込みながらもそれが個性であり、魅力である「ねこ」の存在は過去の愚かな振る舞いによって周囲から取り残されてしまっても、日の当たる場所に居場所がなくても、それが自分の持ち味なのだと。フラットな視点で自分の過去も性格も認めてあげていいのだと。そんな気持ちにさせられる。

 「ねこ」が他のすみっコたちに比べて個性が弱いだなんてとんでもない。実は「ねこ」は最も身近な個性を持ち、最も親近感を覚えるすみっコだったのだ。

 後悔だらけの人生を歩んでしまった自分を認めてくれるような、劣等感に押し潰されそうになった時のお守りになってくれるような、そんな心強さを「ねこ」は持っている。

 『ねこのおはなし』の最後は回想を終えた「ねこ」が「自分はあの頃と何も変わっていない」と落ち込み、「優しいみんなのためにいつか変わりたい」と願って終わる。

 しかし、冒頭で「やさしい」と紹介されている通り「ねこ」もちゃんと優しさを持っている。気の弱さ故にすみっこを譲ってしまうとも捉えられるがここは「ねこ」自身が相手を思いやる気持ちをしっかり持っていると捉えたい。そして、その優しさは過去の自己中心的な振る舞いの反省から備わったものではないだろうか。

 つまり、「変わらない」と本人は思いつつも「ねこ」もちゃんと変わっているのだ。「ほっそりねこ」になることのような目に見える変化ではないがちゃんと内面は「わがままこねこ」のままではなく相手のことを考えられる「やさしいねこ」に成長できているのだ。そんな優しさを持つ「ねこ」だからこそすみっこという仲間と居場所に出会えたのだろう。

 自分もそんな「ねこ」のように自分ではわからなくても少しずつでも後悔から成長できていれればいいなと思う。 

『ねこのおはなし』は「ねこ」の持つキャラクター性の深さとその魅力を教えてくれ、見ている人の日々の後ろ向きな気持ちを和らげ、ちょっとだけ前に目を向けさせてくれる、そんな物語だった。

 これから、私の「ねこ」に狂う日々が始まる。